社内報の歴史

社内報はどのように誕生し、それぞれの時代のうねりの中でどのように変化してきたのか。
また今後、社内報はどう進化していくのかを、歴史とともにご紹介いたします。

明治「社内報誕生のきっかけは人間愛!?」

この時代に社内報は誕生しました。社内報とは、どのような必要に迫られ、生まれたのか? それは従業員のことを思う、人間愛でした。明治期に始まった産業革命により、わが国は紡績・綿織物など軽工業中心に発展していきました。しかし労働者は低賃金、長時間労働を強いられ、紡績工場で働く子女たちも「女工哀史」で象徴されるように、過酷な労働条件下で働いていました。その中で、明治36年7月に当時鐘淵紡績兵庫支店工場長であった武藤山治氏が「兵庫の汽笛」という社内報を発行し、これが社内報第一号といわれるものです。

武藤氏は温情主義、家族主義という経営理念を掲げ、紡績所内に学校や託児所を設け、福利厚生を整備しました。それだけでも当時では驚くべきことですが、武藤氏はさらに社内報を発行し、社員間のコミュニケーションをも尊重し、ときには従業員の娯楽となるような記事も載せています。この時、従業員全員に配られた社内報の発行部数は当時の一般新聞と比べても相当な量の3万部を誇り、上意下達、下意上達を実現しました。

また明治時代は外国から入ってきた生命保険制度に対する理解が浸透しだした時代でもあります。契約者数の急増に伴い、代理店との業務連絡や毎月の契約高を発表する場として保険会社も社内報の発行を始めています。

大正「ハイカラさんも悩んだ! "働くとは?"」

この時代は民主主義、自由主義を求める大正デモクラシーという大きな動きがあった時代でした。の勝利を通して国際連盟の常任理事国に就任し、国内でも国際協調の気運が高まりました。それに伴い、民衆の間では欧州から入ってきた民主主義、自由主義の思想が広まり、小作争議や普通選挙運動、労働運動などに代表されるように自分たちの権利を貪欲に手に入れようと運動を起しました。

その波の中で、社内報も例外ではなく影響を受けることになります。経営者はこの労働運動に対して、労使協調や働くということについて社内報で解説し、事態の収束に奔走したようです。

よってこの時代の社内報の主な記事は「労使協調」「失業問題」「働きがい」「労働者の自覚」など、労務問題が多くを占めることになりました。

昭和初期「不況でつらいのはみんな同じ! 一緒に切ろう!」

大正に引き続き、この時代でも労務問題は色濃く社内報に反映されています。第一次世界大戦後、我が国は造船業、海運業を中心にアジア市場を独占し、いわゆる大戦景気によって不況を脱する兆しが見えました。しかし、欧州の国々の経済回復が早期に行われ、日本は市場を奪われ、輸出が減少し、戦後恐慌に陥ってしまいます。さらに大正12年9月1日に起こった関東大震災と、金融恐慌というダブルの打撃を与えられてしまいました。

このような長引く不況の中、労使関係を安定に保つため、社内報には労使間、社員間のコミュニケーションを重視し、親睦的な面を押し出す記事が多くなっていきます。たとえば社内で川柳の公募を行い趣味の交流を図ったり、結婚した従業員の紹介をしたりと、一度に200名ほどの従業員が登場する全員登場主義が主流になっていきます。また、従業員の資質向上を一段と目指す目的として、社会常識、実用知識などを提供する役割も担っていたようです。

戦時中「戦争に利用された社内報…」

昭和12年の日中戦争を機に、日本は戦時体制に突入していきます。昭和15年、産業報国会がつくられ、労働組合の全国組織である全国労働組合同盟と日本労働総同盟を解散し、内務省・厚生省の指導の下、労働者を戦時体制に統合していきます。そして社内報は、その機関誌としての役割を負わされるものが増えていきます。

また多くの社内報は、紙不足・人手不足などで廃刊・休刊に追い込まれ、生き残った社内報の多くは戦意高揚を目的として発行されました。

戦後「組合法×社内報」

太平洋戦争敗戦後、日本は混乱期に陥ります。700万人にも及ぶ日本人の引き揚げもあり、国民は合法的に配給された食糧だけでは生活が困難であり、焼け跡には闇市が立ち並びました。そんな中、GHQの民主化政策の一貫である、労働組合の育成によって戦時中に投獄されたり、活動を沈静化させていた共産主義者や社会主義者、無産運動家、労働運動家が活動を再開し、労働運動は活発化、組織化されていきます。

また次々と結成された大手企業や官公の労動組合は「組合報」を発行。団結力高め、労働争議を推進しました。労働組合が発行する「組合報」は企業の行動を独自に解釈し、さまざまな記事を載せました。
経営者の課題は、いかにこの労働争議を収束し、企業を防衛するかということでした。県単位に組織された経営者協会には加盟会社の社内報研究会が発足し、組合報対策を編集方針とする勉強会が開かれています。

「社内報」は「組合報」に対抗し、企業自らの考えを自らの手で伝え、経営者側の立場や主張を訴える重要な役割を担うものとなっていきました。

高度経済成長期「第三のジャーナリズム」

1950年の朝鮮戦争による特需によって、日本は戦前の水準にまで復興し、さらに経済規模は拡大し続け、高度成長期に突入します。在日米軍による日本への直接的な大量買い付けは、日本に最新技術をもたらしたほか、アメリカ式の大量生産技術を学ぶことができ、経済を復興させるための重要な糧を手に入れました。また、東京オリンピックやベトナム戦争、大阪万博などによる特需が立て続けに起き、1698年、GNP世界第二位にまで登りつめることができました。しかし、同時にこうした華やかな経済成長の裏で環境破壊が進み「イタイイタイ病」「新潟水俣病」「熊本水俣病」「四日市ぜんそく」などの公害問題が起こり、企業の責任が問われ始めたのもこの時期でもあります。

企業は拡大の一途をたどり、社員数も増えていきました。大勢の社員に経営者の想いを浸透させ、上位下達、下位上達を実現し、社内の融和をはかるために社内報の力が大いに必要とされました。そのため、社内報は莫大的に数が増え「第三のジャーナリズム」と呼ばれる社内報ブームが到来。この時期には社内報研究会が主催する全国社内報コンクールも始まり、有名週刊誌編集長や大手出版社編集長、大手広告代理店のPR部長などが審査員を務め、社内報ブームに一役を買いました。テレビ、週刊誌の影響を受けながら社内報はより分かりやすく、親しみやすいものになっていき、読者と編集者の双方の意思が通じ合うものとして形を形成していったのです。

映像の社内報が登場! その魅力とは?

映像社内報の根源的な元祖は、学校でのテレビ導入に始まります。 昭和40年代以降、小型VTRの普及で校内テレビ放送システムを導入する学校が増え、校内の情報伝達、コミュニケーション用以外にも、放送クラブ活動や番組制作そのものを教育手段にしていきました。

昭和46年、カメラとモニターを有線で結ぶCATVが世に浸透しだし、東武、伊勢丹、三越などが店内に導入し始めました。しかし、当初の使用は食品売り場で食品の映像を、衣類売り場で、衣類の映像を流すばかりで、創意工夫が見られず、最初は物珍しさで見ていた客も徐々にテレビには見向きもしなくなり、昭和48年のオイルショックによる景気悪化、ビデオやCATVシステムの未完成な機材トラブルの多発により、余分な支出と見なされ、導入をほとんどの企業が取りやめる結果となりました。しかし、昭和46年に登場したカセット型カラーVTRの利便性により、企業
のビデオ利用は定着していくことになります。当初は社員教育用に導入され、新入社員教育から中間管理職教育までさまざまな社員教育に活用されました。

失われた10年「お金がない、社内報はやめにしよう」

バブルが崩壊したのち、日本は長期的な不況へと入っていきます。多くの企業が倒産し、リストラが大規模に行われました。企業が生きるか死ぬかの瀬戸際で、従業員もボーナスをカット、賃金を下げられる中、社内報も経費節減の格好の的となったのです。社内報のページ数や発行数を減らしたり、社内報そのものをなくすことで企業は従業員に経費節減をアピールしました。それを「社内報のスケープゴート化」と呼びます。

高度経済成長を機に発展してきた社内報も、この時期を境に衰退の一途をたどるようになります。

一方、映像社内報は、機材費やスタジオ投資費、専門業者の外注、大量のダビングなど活字社内報に比べ、コストがかかるため、バブル崩壊後急速に衰え始めます。

そこで多くの企業は、専門業者の外注をやめ、自分たちの手で映像社内報を制作し、経費削減の工夫を凝らしてきました。

しかし、素人の手で制作されたものは企画の未熟さ、技術不足が目立ち、会社内で見る人間は少なく、映像社内報の存在意義自体にも疑問符が打たれるようになりました。当然、映像社内報は次第に制作されなくなっていきました。

現代「物から心の時代へ」

不況による社内報の氷河期を過ぎ、今また社内報は見直されつつあります。

それは利益だけを追求するのではなく、社員や社員の家族を大事にし、さらなる社会的貢献を目指す企業が増え、それが結果的に企業の安定につながることに気づいたからです。

その流れの中で今、あらためて社内報誕生の原点に戻り、会社内でのコミュニケ―ションを充実させる重要なツールとして社内報の重要性が再認識されています。

現在、大手企業は合併を繰り返し、大きな規模の会社が多くなってきました。
同じ会社の人間でも知らない人がほとんどという環境で社風や企業理念、愛社精神などが浸透しにくくなってきているようです。そのため社員をコントロールすることも難しくなってきます。そこで、多くの企業は社員にコンプライアンスやCSRの徹底を社内報を通じて浸透させるべく活用しています。

近年、映像社内報も再び見直されつつあります。その第一の理由としてデジタル機器の簡易化、低価格下になったことが挙げられます。また映像社内報はWeb、イントラネットやSNSなどの最新のメディアとの連携が注目されており、速報性の高い、シンプルで分かりやすい社内報を制作することが可能となっています。
そして、現場の臨場感を切り取れる映像は観る人への強い訴求力があり、それを利用したドキュメンタリータッチの社内報など、新しい分野の開拓が進められています。

映像社内報は今後、ますます進化していくメディアとして今まさに注目されているのです。

さらに、IT技術の発展によってイントラネットやツイッター、SNSなどが普及し、活字社内報や映像社内報と効果的に組み合わせて使われるようになりました。ある企業ではイントラネットとツイッターが連動した社内報を展開し、社長と従業員がネット上で意見を自由に交換ができるなど、経営者の考えや会社の進むべき方向をリアルタイムで理解することで、従業員に当事者意識を持たせようとしています。

またある企業では社員専用のSNSを設けました。そこでは社員同士が自社の新商品について議論することができます。経営陣はそれをモニタリングし、社員が今どんなやりがいや不満を感じているのかなど生の声を情報として吸い上げることができるのです。

さらには、紙の社内報からWeb社内報へ社内報を移行したにもかかわらず、反対にWebから紙の社内報を復活させた企業もあります。

紙という究極のモバイルツール、そして手元に残る感覚。やっぱり社内報は紙で無いと読まれないとなったようです。いつの時代でも従業員に読まれるためには、どのようなアプローチが必要なのか?
常にアンテナを高く張っておかないといけませんね。

まとめ「坂の上の社内報」

このようにして現在、社内報はひとつのメディアに留まることなく、メディアの垣根を越えて利用されています。
明治時代に誕生した社内報は、それぞれの時代にあわせ生き物のように変化し、進化し、発展してきました。時には衰退することもありましたが、必ず時代が社内報を必要とし、社内報は今日まで歴史を刻んできました。

利益や会社の規模を大きくすることが全てではなく、社員の働き方、モチベーションを高め、働きやすい働きがいのある会社を目指すために、いま社内報が見直され、そして欠けがえのないツールへと進化を続けているのです。

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